わたしは貝になれない

人生の偏差値50

水兵Liebe my boat

もう結構いい歳にも関わらず、未だによく分からないことが沢山ある。

量子力学とかそういう小難しいことについてではなく、日常的な物事について。

 

 

30過ぎても十二支が言えない奴を、マジかよ無知すぎるだろと馬鹿にしたことがあったが、そういう自分は31日まである月が分からない。所謂小の月、大の月の区別がつかない。

 

「にしむくさむらいだよ〜」

と言いながらグーにした手を反対側の手でちょんちょんと触ってた高木さん(早見優似で可愛い)。その時に詳しく聞けば良かったが、そうだよね知ってる知ってると言わんばかりの澄まし顔でスルーしてしまった小5の頃。尊大な羞恥心と臆病な自尊心(©️山月記)、こいつらがいつも自分から学習の機会を奪う。

高木さんは小6の春に都会へ転校してしまった。後に届いた手紙には「クラスで一番格好良い人と付き合うことになったよ☆」とあり、彼氏って……小6で⁉︎早過ぎない⁉︎という衝撃がカッペ達に走り、自分は都会で出来た格好良い彼氏に「西向く侍」を教えている高木さんの姿を思い浮かべた。

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にしむくさむらいだよ〜

 

 

鶴も折れません。King of 折紙の鶴です。

皆さん、易々と折ってらっしゃいますが、あれって工程多いし結構複雑な作業ですよね。しかも、少しの曖昧さも許されないときてる。きっちり角合わせとかないと、後から皺寄せが来て最終的に太った不恰好な鶴が出来上がったりしちゃう。

三つ子の魂百までと言うが、「(細かいとこは置いといて、と)アウトラインだけ抑えときゃなんとかなるっしょ」のスタンスは、自分が幼稚園の頃には既に確立されていたように思う。いつも途中で諦めた。労力の割に出来上がりが地味だから鶴って。だったら完成してからも面白いカメラとか手裏剣を作りたい。

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専門学校時代の精神科実習で、所構わず放尿してしまうため拘束服を着せられているお婆さんと一緒に鶴を折るというレクリエーションをする機会があったが、まず病棟の看護師さんから折り方を優しく教わり、その後でようやく自分がお婆さんに優しく教えるという伝言ゲームみたいな事態になってしまった。パプアニューギニアがパパは牛乳好きだになっちゃうのと一緒で、最終解答者のお婆さんが綺麗な鶴なんて折れるはずもなかった。

このような情けない経験を経ても尚、私の頭の中の消しゴムは毎度毎度鶴の折り方を消してしまう。

 

YouTubeで石のカンノのCM(ご存知福島県ご当地CM)でも見るかと検索していると、間違って日本サイコー好き好き大好き超愛してる!みたいなクッソ恥ずかしい動画をタップしてしまう時があり、静止画にテキストが流れるだけのクッソしょうもねぇのを数秒見る羽目になる。数秒だから詳しいことは分からんが、折鶴を外人にあげたら凄く感激されて、これを簡単に作れる俺ら日本人ってやっべ〜、誇らしい〜!みたいなエピソードがあるようだ。

誇らしく思うのは結構だが、日本人だからといって全員が全員器用なわけではないということを念頭において欲しい。あとクソみたいな動画をアップするのは止めろ。 


【CM】石のカンノ

 

 

 

大学受験を控えた夏、世界史の教師が

「お前らに今から中国の王朝を歌で覚えてもらう!これ覚えたら一生絶対忘れないし、トイレでうんこしてる時も無意識に口ずさんじゃうからな!」

じゃあ行くぞ、と言い、アルプス一万尺のメロディにのせて♩殷周東周春秋戦国秦前漢新後〜漢魏蜀呉……と歌い出した。

これが本当マジで、高校卒業して大分経つ今でも忘れられないし、散歩の時風呂入ってる時つまんねーテレビ見てる時勿論うんこしてる時もなんとなく歌っちゃう。

 

特技は中国の王朝全部言えることです!とほぼ初対面の人に得意げに披露したことも何度かある。

へーすごいね、と皆一様にお世辞を言ってはくれるが、いきなり長々とインシュトウシュシュンジュセンゴク!とわけの分からん呪文みたいなアルプス一万尺聞かされてたまったもんじゃなかったと思う。

まだ続くの?早く終われやという気持ちが相手の顔にありありと表れていても、揚々と始めた手前途中で止めることも出来ないし、というかこっちも早く終わらせたいしという焦りも相まって、後半の五胡十六国北魏東魏の辺りなんかスキャットマン・ジョンになってしまうのだが、とにかく、もうコレ一生覚えてる自信ある。

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幼少期に自転車に乗らないでいると、大人になってから習得するのに多大な努力を要するらしい。外国語は教わる年齢が低ければ低いほど上達が早いとか。

要するに、学ぶべきものは学ぶべき時に学ばないと後々苦労するぞということである。

昔はパサパサだったスポンジも今では日本酒の銘柄やゾンビ映画のタイトルといった泥水を吸い込んでじっとり湿っており、綺麗な水分を吸い込むための余地は僅かである。

西向く侍の解釈だって、何度か調べてみてその度になるほどねと理解はするのだが、またすぐに忘れてしまう。完全に機を逸した。脳に西向く侍が入り込む余地がなくなってしまった。

しかしながら、西向く侍や干支や春の七草秋の七草歴代首相にひとよひとよにひとみごろ、どれも常識だが日常生活にそこまで影響を与えない事柄なので、そんなもんは都度インターネット様に聞きゃいいのである。無理に覚える必要ないし〜、となる。別にそれが良いとか悪いとかじゃなく、だから自分は今後も大の月小の月鶴の折り方を覚えられないまま一生を終えるだろうということを言いたいのです。

 

責めないで欲しい。